戦国武将のストレスと進化
新型コロナによる閉塞感、学歴社会の憂鬱、職場や家庭などで問題化するハラスメント…。
それは歴史上の人物たちも例外とは言えません。かの織田信長は、周囲への暴言や残虐な仕打ちを繰り返し、今世風に言えばパワハラ上司の一面があったようです。
彼の配下にいた武将たちのストレスフルな心持はどのようなものだったか、今回はその考察です。
私は歴史が好きである。特に戦国時代にしのぎを削った武将が好きだ。
織田信長が、本能寺の変で明智光秀の謀反に倒れた際に、その旗印「青に桔梗」を目の当たりにして「是非に及ばず」と言ったとか。無念のにじむ科白である。
信長という絶対君主に仕え、低い身分から城持ち大名まで出世した明智光秀、そして豊臣秀吉。この二人、信長のもとでかなりのストレスを抱えていたのではないかと推察する。
光秀は信長より八歳年上とされている(諸説あり)。丹波をいち早く平定し一国一城の主となるが、その後丹波を召し上げられ、中国討伐中の秀吉のもとに下ることになる。しかし命に従わず中国で合流するはずの信長を「敵は本能寺にあり」と攻め滅ぼしたのが本能寺の変である。
信長は光秀を金柑頭(禿頭)と罵倒し、人質となっていた光秀の母を見殺しにし、比叡山焼き討ちを強要した。光秀のストレスは相当なものだったろう。
一方、秀吉と言えば信長のお気に入りというイメージがあるが、自身もいつ首を切られるかのストレスでぎりぎりになっていたのではないか。そもそも扱いは人でなくサルである。何とかその支配から逃れたい。
秀吉は中国攻めに難航していたが、いよいよとなると信長の出陣を依頼する。この時、柴田勝家、滝川一益など数ある武将がすべて地方に散らばっており、信長のもとには光秀以外、誰もいなかった。信長はそれほどに明智光秀を信頼していたのではないか。それゆえ「是非に及ばず」という言葉がはまる。信長が倒れると、秀吉は裏切り者として光秀を討つべく兵を集結させた。この中国大返しの段取りを考えると、豊臣秀吉は千載一遇のチャンスにストレス仲間の明智を担ぎ上げ、一気に飲み込んでサルから天下人となったのではないか。まさに進化である。
全て私見です。