精神的支柱NO.2についての考察
私は戦国時代を勇気と知略をもって駆け抜けた武将が大好きです。歴史に残る名武将たちは勿論ですが、その支えとなった「No.2」にとても興味を覚えます。
例えば上杉景勝と直江兼続、石田三成と島左近などが思い浮かびます。彼らはいずれも時の権力者から至極の誘いを受けた「もののふ」ですが、それを拒み、忠心を貫いたとの史実があります。私にとってもう一人、秀吉の異父弟で「大和大納言」と称された、豊臣秀長も魅力的No.2なのです。秀吉のNo.2というと、竹中半兵衛や黒田官兵衛といった軍師の名を挙げる方も多いと思います。ですが、秀吉が足軽時代から苦楽を共にし、唯一の血縁側近であった豊臣秀長こそ「それ」にあたると思うのです。
兄の秀吉が「表」としたら、弟の秀長は「裏」。ひたすら裏方に徹するパーソナリティなのです。秀吉は他の人には任せられないような、地味できつい仕事を迷いなく秀長に命じます。秀長はその期待に応え、淡々と職務を遂行していく。穏やかで控えめな性格の秀長は、個性的な豊臣家臣団からの信望も厚かったとか。
最高の理解者として兄を支え続けた秀長。この異父兄弟は、2人でこそ絶妙なバランスを保っていたのです。「表裏一体」、「アクセルとブレーキ」の体です。
1591年、秀長は享年52歳で秀吉よりも先に逝くのですが、それ以降の豊臣政権は次第におかしくなっていきます。千利休に切腹を命じたり、甥の秀次を一族もろとも死に追いやったり。朝鮮出兵もそうです。精神的支柱の喪失によって、的確な判断力を失ったのです。突然訪れた環境の変化は、徐々に天下人の精神を蝕んでいったのです。仮にもう少しでも秀長が存命であれば、事態のいくつかは回避できたと思えてなりません。
令和の今、精神的支柱となる「No.2」のとらえ方は多様であり、上下関係のみならず、伴侶や友人など良き理解者をも指すと思います。時代を問わず、急激な環境の変化や過度のストレスにより、心身のバランスを崩すことは珍しくありません。一人で抱え込むことなく、自らの理解者とよく話し、傾聴して万難を排していきたいと私自身強く思うところです。